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定義集

コーポラティズム・市場社会主義・

社会民主主義・ヘゲモニー

 

井上達夫(責任編集)

『岩波 新哲学講義7――自由・権力・ユートピア』

岩波書店1998、所収.

 

 

 

「コーポラティズム」

 

 身分制的な職能団体(労働者と経営者の諸団体)が政治の意思決定過程に制度的に参加することによって、相互的な義務と権利に基づく社会的調和を作りだし、協調によって持続的に経済成長を達成しようとする体制・構造・動向の総称。団体主義国家、協調主義、職能団体(代表)体制、政・労・使の協調的協議体制などと訳される。

 コーポラティズムの概念史は三つに区分できる。第一段階は、ローマ教皇レオ一三世の回勅(1891年)以降のオランダ、および教皇ピウス一一世の回勅(1931年)以降のイタリア全体主義国家において実現した社会構想である。とりわけイタリアのファシストは、資本主義と社会主義の両方を批判しつつ、労働者、資本家、専門職業人を各産業ごとに団体化し、政府直属の指揮下においた。これによって市民から政治的権利を剥奪し、職能団体の政治機関化によって少数者支配を貫徹し、さらに代議機関としての団体を優先して議会制民主主義を否定するといった、国家主導による反議会主義的な体制を築いた。

 第二段階は、一九七〇年代以降に提出された(ネオ)コーポラティズム像であり、国家主導型ではなく、戦後のオーストリアやスウェーデンに代表されるような「下からの要請」に基づく団体主導型のモデルを指す。シュミッターは次のように特徴づけている。(1)義務的・資格制限的加入ないし高い組織率、(2)組織内セクター間の非競争性、(3)的・設計的秩序、(4)指導者の自選、(5)独占的に利益を代表し協議することの認可、(6)利益団体の集中と統合(単一性)、および、(7)協調的で圧力や闘争のない政策決定過程である。これに対して、(4)以外の特徴のすべてを満たさない社会、すなわち利害団体が産業内において競合しているような社会を「多元主義」という。また(2)以外の特徴をすべて満たさない社会を「サンディカリズム」という。シュミッターは西欧諸社会がコーポラティズムからサンディカリズムへ向かっていると捉えたが、その後の研究は、(1)〜(7)の特徴を用いた分類装置の考案と実証的研究によって、様々な傾向を指摘している。

 コーポラティズム的な団体構成の特徴は、中間集団による孤立した個人の道徳的統合、国家による支配の制限(治安維持、対外防衛、外交問題に限定)、階級内の水平的な関係の排除と団体内の階統的な縦関係の構成、団体ごとに成立する社会的正義の基準、および、移民労働者の排除による文化的同質性の維持にある。こうした団体構成に基づく政治は、地域的投票集団に基づく議会政党政治や、官僚エリートによる支配とは区別され、大衆を政治に動員しつつ、代表者レベルでは労使闘争を排してカルテル的な協働をもたらすという点に、固有の特徴がある。しかし他方でこの体制は、私的利益を代表する組織が公共政策の決定に加わることから、国家と市民社会の公私分離を曖昧にするという問題を抱える。

 八〇年代になると、西欧諸国の体制は、コーポラティズムと組織されない資本主義の中間形態に収斂する傾向を示すようになる。以降、第三段階として、コーポラティズム概念の形容詞化、下方修正、および作用への関心がみられる。高次の利益組織化や協調があるだけで「コーポラティズム的」という形容が用いられ、概念が広義化する。またマクロ・レベルを下方修正してメゾ・レベル(産業セクター・地域)やミクロ・レベル(企業)にコーポラティズム的性格を見出すという、関心の微視化が進む。さらに、社会が部分的にコーポラティズムの作用をもつ場合、その目的に注目して安定創出型・発展促進型・危機管理型などの区別がなされたりする。コーポラティズム体制は崩壊したとはいえ、複雑な現代社会のなかにコーポラティズム的要素を見出そうとする研究は、議会政治の空洞化、政治的アパシー、巨大企業の支配といった事態を批判的に問題化する視点を提供している。

 

 

 

 

 

「市場社会主義」

 

 市場メカニズムのすぐれた機能を用いつつ、資本主義社会の悪い側面(搾取、支配、マネー・ゲームなど)をなくして社会主義の諸価値(労働者の企業自主管理、所得の実質的平等化、所有の社会化など)を求めるような、体制改革運動、および思想の総称。

 市場社会主義の概念史は、三つに区分できる。第一段階は、一九二〇〜四〇年代の「社会主義経済計算論争」において示された諸構想である。それまでの正統派マルクス主義は、社会主義体制においては中央当局が、各人の労働量ないし労働時間に応じて計画的に資源配分を行うことができると考えていた。これに対して市場社会主義者たち(ランゲ、テイラー、ディキンソン)は、価格および新古典派の一般均衡理論を用いれば、中央当局が資源を最適に配分できると論じた。ランゲはさらに、そのような均衡を見出す模索過程のモデルを提示した。そこでは、消費財と賃金の価格を市場の決定にまかせ、その他の生産財の価格を中央当局でひとまず決定し、その後、価格のシグナル機能を用いて財の均衡価格を模索的に調整する。この手続によって、中央当局は一般均衡モデルにおける何十万もの連立方程式を解くことなく、最適な資源配分を達成できるという。しかしこうしたランゲの構想に対して、ハイエクは次のように批判した。すなわち、(1)経済は動態的なので均衡価格を見出す模索過程は収斂しない、(2)商品の数は膨大なので価格を中央当局が指示することは不可能である、(3)市場競争がなければすぐれた生産や最適な価格を発見できない、(4)中央当局が操るよりも現場の知識のほうが決定的に重要である。以上のようなハイエクの批判を踏まえて、その後の経済体制論は、資本主義と社会主義の混合による最適なシステムを模索した。

 第二段階は、五〇〜八〇年代、社会主義国で実際に市場的要素を導入する動きと、それに対応した現実的な諸構想である。ソ連ではスターリンを批判したフルシチョフが、経済に市場メカニズムを導入するという改革を行った(一九五六−六八年)。利潤指標や最終需要責任などによって企業に自主性をもたせ、中央当局は十数個の指標のみを用いるという改革案であったが、このもくろみは、ソ連がチェコ-スロバキアの急進的な市場社会主義運動を武力で弾圧するや頓挫してしまった。一方、その他の東欧諸国および中国では、市場経済の導入が徐々に進んだ。コルナイ、ノーヴ、ブルス、セルツキーらは、現実の計画経済の非効率性(ソフトな予算制約やインセンティヴのなさ)を批判し、新たに、マクロ経済政策と労働者の自主管理企業の複合、分権的決定、市場の大幅な導入などを提案した。

 第三段階は、八〇年代後半以降の新たな動きである。ラボアが社会主義経済計算論争におけるオーストリア学派(ミーゼスとハイエク)の意義を再評価すると(一九八五年)、市場社会主義者たちは市場容認の方向で議論を修正した。例えば新たなモデルとしてジョン・ローマーは、賃金格差を容認しつつも、株式クーポン(通貨へ兌換不可能)をすべての市民に配布することで利潤への権利を平等に与え、企業の所有を一部の階級に制約しないシステムを詳述した。また思想においてはデビッド・ミラーが、現代の自由主義思想を批判しつつ、資本所有の社会化をめざす構想を提出した(一九八九年)。体制改革運動においては、東欧革命を経た諸国が市場経済を導入する際に、急進的な自由市場経済を目指すのでなければ何であれ市場社会主義と呼ぶ。なお「社会主義市場経済」とは、中国共産党の第一四回党大会(一九九二年)において提起されたもので、「経済は市場開放へ、しかし政治は一党独裁維持を」という体制理念のこと。これを市場社会主義と呼ぶかどうかは未定である。いずれにせよ体制変革としての市場社会主義は、現実を理想的な市場社会主義の諸構想に至る途中の「移行期経済」とみている。

 

 

 

 

「社会民主主義」

 

 社会民主主義はF・フッカーの造語である。これをはじめて党名に採用したのは、ルドリュ=ロランがフランス二月革命の後に組織した党であった(一八四八年)。ドイツでは、国家補助による生産協同組合をめざす全ドイツ労働者協会(ラサール派)が機関誌名に『社会民主主義者』を採用し(一八六四年)、またこれに対抗して国家と資本主義の全面的変革を求める「社会民主労働者党」(マルクスが支持したアイゼナハ派)は、党名に社会民主主義を織りこんだ(一八六九年)。この時期の社会民主主義は、労働者層によるさまざまな民主化運動および社会主義運動の総称を意味した。

 ドイツにおける両党は、やがてドイツ社会主義労働党(一八七五年)へと合同し、マルクス主義を支持してドイツ社会民主党(一八九〇年)へ改称する。このドイツ社会民主党が主導した国際的労働組織=「第二インターナショナル」(一八八九−一九一四)の初期には、社会民主主義は、理論・理念上はマルクスの社会革命論と歴史法則主義を支持しつつ、実際の政策的要求は改良主義的・自由民主主義的なものを掲げていた。

 しかし二〇世紀初頭になると、社会民主主義は、一方では理論上の革命主義や歴史法則主義を否定するベルンシュタインの修正主義(これはドイツ社会民主党のドレスデン大会(一九〇三年)で公式に非難され敗北した)に代表され、他方では第一次世界大戦において、祖国防衛戦争やファシズムに反対した急進左派の共産主義者たちは、社会民主主義を日和見主義・改良主義・裏切り者として非難するが、これに対して社会民主主義者たちは、急進左派が求める暴力革命とプロレタリアート独裁を否定し、議会政治における合意、協調および民意を重視しながら、社会主義を実現しようと主張した。ここにおいて社会民主主義は、反マルクス=レーニン主義的な社会主義、すなわち、社会主義を民主主義的な方法を通じて実現しようとする主義ないし運動を意味するようになる。

 戦後になって新たな社会民主主義の理念が表明されたのは、社会主義インターナショナルが採択したフランクフルト宣言(一九五一年)においてである。そこでは、ソ連型社会主義への反対と非妥協、経済的民主主義の確立などが謳われている。この時期の社会民主主義は、経済面では生産手段の私有にもとづくケインズ主義政策、政治面では民意に基づく自治・参加型の社会労働運動を意味している。これに対して「社会主義的民主主義」とは、生産手段の公的所有をめざす政策理念をいう。また「民主的社会主義」とは、この時期の社会民主主義と同じ意味であり、ただしその蔑称的なニュアンスを消し去っている。

 冷戦構造が崩壊した一九八九年、社会民主主義は、ドイツ社会民主党のベルリン綱領、および社会主義インターナショナルのストックホルム宣言によって再出発する。そこでは、ケインズ主義政策の難点への反省から、経済活動の社会化という従来の主張を弱め、欧州の東西を包摂する共通安全保障の必要性、エコロジー、フェミニズム、南北問題への取り組みが強調されている。また、自由・公正・連帯という三つの理念は、キリスト教と人間主義哲学、啓蒙、マルクス主義学説および労働運動の諸経験を背後に含みもつとされる。

 社会民主主義の概念は、一貫した思想体系ではなく、政党政策レベルの理念であり、政党の歴史的な布置状況に応じて変化してきた。それは、一方で自由市場経済を支持する政党に反対し、他方で公的所有や革命を求める共産主義政党に反対するという「二重の反対」によって自らを相対的に位置づけており、社会政策を「民衆の意向」に照らし合わせながらプラグマティックに実現化しようとする点に固有の特徴がある。社会民主主義のアイデンティティは、その理念にではなく、諸政党が自らの活動史を物語的にまとめあげているところにある。

 

 

 

 

「ヘゲモニー」

 

 ヘゲモニーの概念は、自国以外の国の指導(支配)者を意味するギリシャ語のヘゲモンから派生し、一六〜一九世紀には支配的原理や主導権を意味するようになった。二〇世紀になると、一方では国際秩序を樹立する大国の支配を意味し、他方ではグラムシによって倫理国家の指導的支配を意味するようになった(『獄中ノート』一九二九−三五年)。「覇権」とも訳されるが、しかし「覇」は仁義なき武力統治を意味し、倫理指導とは異なる。孟子の区別では、仁政を装って権力政治を行う覇者の統治を「覇道」、有徳の王者が仁徳によって治める統治を「王道」という。「覇権主義」とは、中国共産党が大国ソ連のアジア接近を批判するために米中共同声明(一九七二年)においてはじめて用いた造語であり、覇者の軍事力を背景に秩序を樹立する政治理念を意味する。hegemonismはその英訳。

 ヘゲモニーは、一方におけるむきだしの軍事的な非正当的支配、他方における単なる文化・経済的な非政治的支配とは異なり、説得、報酬の供与、価値の指導といった非強制的影響力によって服従者の自発的同意・同調を調達するような、正当化の政治実践を用いる。ただし正当な支配といっても、M・ウェーバーが分類した合法的支配・伝統的支配・カリスマ的支配という三つの正当的支配とは異なる。第一に、ウェーバーの「支配」は権威をもった命令権力と服従義務の関係であるが、ヘゲモニーはそのような支配を中心におきつつも、その周囲に無自覚的な影響、物質的利害関心、教育−学習関係をはりめぐらすことで、間接的だが構造的な(諸個人の動機や個々の状況によっては説明できないような)支配をする。第二に、ヘゲモニーの正当性は、支配的と呼ばれる組織体が、価値の普遍化機能と秩序の安定化作用をもつことにあり、優れているから優れているという自己準拠的な性格をもつ。この自己準拠は、従うことの正当性よりもその利便性、強制力ではなく「〜したい」と思わせる力(嗜好に対する影響力)によって、通常隠蔽されている。第三に、ヘゲモニーは、例えば経済や文化の影響力の背後に政治実践(さらには軍事力)を読みとったり、政治実践の背後に倫理的指導や軍事力を読みとるなど、権力作用を領域複合的に帰属させる。これによって支配の全体性と象徴的な支配組織がイメージされる点にヘゲモニーの特徴がある。この特徴は、法・行政に限定された合法的支配とは異なり、また正当性を神聖なものへ準拠させる伝統的支配やカリスマ的支配とも異なる。

 国際秩序を樹立する大国の支配に注目するヘゲモニー研究は三種類ある。(1)帝国主義や植民地支配から支配をいっそう間接化し非公式化した点に、ヘゲモニー体制の特徴を確定しようとする議論。(2)一六世紀以降の大国の興亡史から長期的な覇権循環のメカニズムを特定し、現在の世界秩序を評価する議論。(3)ヘゲモニーが確立すれば世界システムは安定するという覇権安定論の是非をめぐる議論。以上である。なお今後の世界秩序に関しては、先進諸国による共同覇権、米から中国への覇権代替、覇権なき世界秩序論などの仮説が提出されている。

 これに対してグラムシのヘゲモニー論は、被支配階級の知的リーダーが進歩的諸分子を統合しつつ、大衆を政治的・文化的に教育するという陣地戦によって、新しい倫理社会(società civile)を構想している。グラムシのヘゲモニー概念を継承した議論は四つある。プーランツァスは、ヘゲモニー分派の権力ブロックという議論によってレギュラシオン理論へと展開した。ラクラウ&ムフは、ミクロなヘゲモニー作用の考察から複数性と非決定性に基づく根源的民主主義論を展開した。S・ギルは国際政治学にグラムシを導入して、「日米欧(三極)委員会」が知的リーダーシップを握り、トランスナショナルなヘゲモニーを確立すると主張した。スチュアート・ホールはカルチュラル・スタディーズの分野で、民衆の文化的ヘゲモニー闘争がもつ政治性について論じた。